Interview #04音楽とエヴァ、そして自転車。
デザイナー市古斉史の20年

グラフィックデザイナー 市古斉史

若手デザイン集団の台頭。
初めてのプロダクトデザイン

遊びの延長のような形で始まったTGBの活動。いまでこそ笑い話だが、始めたころはデザインの仕事に関する専門知識もなかったという。

「2000年代以前は写真もポジフィルムなどが多かったので、印刷物を作るにはある程度の専門知識が必要でした。ラッキーだったのは、予備校の先輩繋がりでデザイン事務所に知り合いがいたこと。最近だと『スペース☆ダンディ』のアートワークなど、アニメ関連の仕事も多いマッハ55号という事務所で、そこの上杉さんにお世話になって。歳はひとまわり違うけれど、友達みたいな感覚だったんです。『色校ってどういう意味?』なんて本当に初歩の質問をしにいって、笑われてました(笑)。マッハの事務所は渋谷の宇田川町にあったんです。当時のマッハはテクノの専門誌『ele-king』にも関わっていたのですが、その事務所をあるDJが間借りしていたり、同じビルの違う階にはダンスミュージックのレーベルもあったりした。そんな風に、僕らの周囲はいつも何かしらクラブカルチャーと繋がっていたんです」

マッハ55号の上杉季明氏といえば、その後公開された『スチームボーイ』のロゴ、『AKIRA』のDVDパッケージなど、大友克洋監督作品の仕事で知られる存在だ。そもそも市古氏がデザインに興味を持ったきっかけも、'80年代にリアルタイムで観た『AKIRA』の原作コミックの装丁だったという。

「そういう出会いがあったのも、元を辿れば吉祥寺で育ったことが影響してる気がします。海外のコアな音楽を扱うレコード屋さんがある一方で、南口を出てすぐに『まんがの森』があったような街。アニメや漫画も身近でした。それと、吉祥寺にはPC関連製品が充実していた『ラオックス』があったんです。TGBの中でも、実は僕がいちばんのデジタルガジェット好き。小学校のころ、ラオックスで父親にNECの中古パソコンを買ってもらったのが始まりです。そのころは、友達と一緒にBASICでオリジナルのゲームを作ったりしてました。僕の小学校時代って、ラジコンとファミコンとプラモデルが子供の3大ホビーだった。当時の男の子はみんな『コロコロコミック』や『コミックボンボン』を読んでいたけど、僕はよりホビー色が強いボンボン派だったんです」

彼らがクラブシーンで仕事を獲得していった'90年代後半、同じように音楽シーンやそれに付随するファッション業界などにおいて、様々な若手デザイン集団が脚光を浴びた。ピチカート・ファイヴの仕事で注目されたグルーヴィジョンズなどは、その筆頭といえるだろう。“デザイン”という言葉がメディアに踊り、“デザイナー”の存在が一種のブームのようになった時代。そのころTGBに飛び込んできた仕事が、プレイステーション用ソフト『ビートマニア』専用コントローラのデザインや、デンマーク生まれの組立てブロック玩具『レゴ』の案件だった。

「コントローラは'99年の発売で、雑誌『ファミ通』の限定モデルだったんです。表面のグラフィックだけではありましたが、プロダクトのデザインとそのパッケージを手がけるという意味では初仕事でした。その後いただいた印象的な仕事のひとつが、'01年に発売された『LEGO qmpo』の案件。レゴブロックの形をしたCDコンポのアートディレクションだったのですが、これは当時原宿にあったバキュームレコードさんというレコードショップが考えたコラボ企画で、遊び仲間だった僕らに依頼がきたんです。小宮山と僕のふたりで担当して、本体の表面的なデザインはもちろん、パッケージから説明書に至るまできっちりデザインしました。これらの仕事が、いま現在のTGBを形成するひとつのきっかけになったと思います」

主に小宮山氏と市古氏がデザインを手がけた'01年発売の『LEGO qmpo』。日本代理店からの依頼ではなく、企画主のバキュームレコーズを通してデンマークの本社と直接作り上げた製品だ。当時はインテリアとしての洋物トイが原宿などで流行していた時期。『LEGO』製品の本質にある良質なデザインを見事にあぶり出した好企画だった。