Interview #06貧乏な模型屋に
降り注いだ福音

株式会社海洋堂
宮脇修一(センム)

“ワンフェスつぶし”
に耐えた90年代前半

ウルトラ怪獣に、ガンダムなどのロボットアニメ。'80年代のガレージキット創世期、アマチュアのファンたちはお手製のキットを手に、各地でファンが興した模型イベントに集結した。中でも'84年、たった10のディーラー数から出発したワンフェスの入場者数は、海洋堂のデータによると第1回で約700人。翌年はいきなり2500人を越え、'91年夏には1万2000人を越える。この'91年にゼネラルプロダクツ(ガイナックス)は、自らの作品制作に専従するという方針から、ワンフェスの主催を海洋堂に譲渡したのだ。

「昔からのよしみで我々に預けてくれたんでしょうけどね。ところが、その'91年を機に入場者数が激減した(笑)。翌年から、それまでワンフェスで最も人気だったガンダム関連の当日版権物が販売できなくなったんです。関連の作品は、バンダイさんとホビージャパンさんが主催する『JAF-CON』という模型イベントの専売になっちゃってね」

ガレージキットも当初はアマチュアの遊びにすぎなかったが、造形技術が洗練されると同時に、イベントで多くの利益を得るディーラーも増えていった。既存のメーカー商品と競合製品になるわけで、無許諾のフィギュア販売は見過ごせないものとなってきたのだ。そこでワンフェスによって生み出されたのが『当日版権システム』である。これは簡単に言うと、著作権が存在するキャラクターを使ったファンによる二次創作物について、それを販売するイベントの主催者が窓口となり、版権元からイベント当日だけ製品の販売許可を取得するという画期的なシステム。具体的には、当Webサイトのコラム『フィギュアの進化とエヴァンゲリオン』にも詳しい。

「最初はたかがオタクの遊びとタカをくくっていた大手メーカーも、そのクオリティを見て存在を無視できなくなったんでしょう。アマチュアやガレージキットメーカーへの許諾に枷がかかってきたんです。'92年といえばセーラームーンが大ヒットして美少女フィギュアのジャンルが確立した時期ですけど、うちではこれも許可が下りずに扱えなかった。せっかくワンフェスを引き継いだのに、その始まりは逆境だったんです(笑)」

それから2~3年は鳴かず飛ばずの低空飛行。しかし'95年以降、状況は一変する。

「特撮怪獣とか、OVAのキャラクターに頼らざるを得なかった我々に、エヴァという追い風が吹いた。同時にあの頃から『ときめきメモリアル』『サクラ大戦』のような美少女キャラが登場するゲームにもヒットが生まれて。ロボットよりも、どちらかというと人物造形を得意とするガレージキット界全体が勢いづいたんです。これによってワンフェスの入場者数は、かつて我々をつぶしにかかった大手主催の模型イベントを凌駕していきました」

一時期5000人台まで落ち込んだ動員数は、エヴァの劇場版が話題となっていた'97年時点で2万人を突破。当時の会場がエヴァ関連商品で埋め尽くされたことは、今なおファンの間での語り草だ。会場も、かつて晴海にあった東京国際見本市会場から、より大きな東京ビッグサイトへ移転。動員数は順調に伸び続け、今ではあの広大な幕張メッセ国際展示場を舞台に、6万人近いホビーファンを集めるまでに成長した。その規模は、模型の販売イベントとして世界一である。

「…と言ってもね、僕自身は'95年当時、エヴァのことをそんなに気にしてませんでした。あの時点でもう40歳近かったし、新しいキャラクターを見極めるアンテナも鈍ってましたから。最初に初号機を観たときなんて、『何やこれ。ロボットのくせに靴履いとるでー』って、笑ってたくらいでね(笑)。逆に、放送が始まってすぐキャッキャと騒いでたのは、美少女フィギュアが好きなBOMEとか、今は亡き佐藤拓といった当時20代でイキが良かった造形師たち。僕が『ヘンなの』と笑ってる横で『これや!』と騒いでるもんだから、僕は『好きにやったら?』とだけ言ったんです」